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戦争の時代

▶大東京の成立

昭和7年、東京市は周辺の5郡82町村を編入、15区から35区になりました。
人口も533万に増加、1日920tのごみ排出量も2,450tの2.5倍に。また、し尿は1日2,160klから5,400klの2倍強に増加しました。
このようなごみ・し尿の増加は従来の処理方法の抜本的改革を迫る事になりました。ごみについては分別収集と再利用の促進がはかられ、養豚場の建設も行われました。し尿処理については市営化になり科学処理や海洋投入が始まりました。
昭和5年、汚物掃除法の改正。昭和6年、警視庁・東京府令として汚物掃除法施行細則(清掃事業を実施するため汚物掃除法と汚物掃除法施行規則の具体的な施行内容に従って事業実施に必要な細則を定めたもの)を施行。この3つの法律・規則がこの後の東京府における清掃行政の指針となりました。

▶ごみ処理の改革

厨芥は残飯・残菜・肉片・骨片などを含み腐敗しやすく悪臭を出し、伝染病を媒介するハエや蛆の発生源でもあり、また水分を多く含んでいるため焼却作業の障害にもなっていました。しかし厨芥はほとんどが有機物で栄養分を含んでいることから飼料や堆肥として有効活用が期待できました。
東京市はコスト面と環境面で焼却以外の方法で処理したいと考え、昭和5年、試験的に分別収集を開始。夏場のハエや蛆の発生を防止できると市民からは早期実施を望む声が聞かれました。昭和6年、本格的に分別収集を開始。
昭和8年、深川塵芥処理工場に厨芥粉砕工場と発酵堆肥化装置を設置。ここでは市の直営事業として粉末肥料や発酵肥料の原料を生産し、堆肥化処理によるごみの再利用をはかりました。
昭和8年、「深川ばい煙騒動(図1参照)」で塵芥処理施設調査会を設置。調査内容は「消煙防煙装置並熱の利用研究」で余熱を利用しての発電計画が立案されました。※実用化にはいたりませんでした。

東京朝日新聞(昭和8年5月4日)より

「煤煙にはなれている深川区民がこの一週間というもの、毒ガスのような煙幕とこの煙から発散される異様な臭気にすっかり悲鳴をあげ、その昼夜の別なき煙地獄にのろいの声さへあげている」と報じた。
ばい煙の原因は、炉の構造に対して係員が未習熟ということもあったが、何よりもごみの大量排出・過剰焼却にあると考えられた。また、分別収集の実施区域が一部にとどまっており、水分を含む厨芥が思うように燃焼しなかったことも原因の一つであった。
市は分別収集区域を拡大するとともに、ごみの減量や分別処理の徹底などの運動を組織し、問題の根本的な解決をはかった。

昭和10年、東京市保健局が冊子「厨芥雑芥の分別蒐集に就て」を刊行。
《毎日、決まった時間に収集作業員の振鈴を合図に、各戸備え付けの塵芥容器のごみを集め、これを運搬車が塵芥取扱場に搬出、ここから船で処分地に運搬します。》
養豚事業も分別収集と同時に開始。昭和9年、足立区南堀ノ内に保健局養豚場が設置され厨芥による飼育が開始されました。


東京朝日新聞


養豚事業

▶し尿処理の本格化

し尿処理は市街地の拡大にともなう輸送コストの増大、人口増による排出量の増加、人工肥料の普及などの理由により商品価値が低下し円滑な処理に支障をきたす様になっていました。
昭和5年、汚物掃除法施行法則の改正により、し尿の汲取りは市の義務となり昭和8年に根本計画案を決定しました。
昭和8年、綾瀬に処理場が完成。し尿の浄化処理が行われるようになる。
昭和9年、市による汲み取りが開始。これに合わせて輸送の合理化や貯溜設備の規格化、改善が推進される。
昭和10年、市による海洋投入が開始。投入先は房総沖の外洋でふん尿を海中で拡散しながら投入し、し尿を自然還元させる方法でした。


ポスター


清掃事業の歴史|各時代

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