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江戸時代

▶江戸時代のリサイクル

江戸時代は“リサイクルの時代”と言われています。この時代は実に物を大切にしていました。
下駄は鼻緒が切れれば布か紐で代用し、どうしてもダメなら新しい鼻緒と取り替える。歯が減れば歯だけを取り替え、台がダメなら台だけ取り替える。こうしてダメになった部分だけを交換し使える所は最後まで使いきる。また片方を無くせば、残りの片方をボロ市に出し、買った人もそれに合う片方を見つけ組み合わせて履きます。それでも使い道が無くなると最後には燃料として利用しました。
このように江戸時代には、物は徹底的に再使用、再利用ができるリサイクルの組織が社会的に整っていました。 つまりリサイクルが一つの産業として成立され、大勢の職人や商人がリサイクル業で生計を立てていました。
「羅宇屋[らうや](羅宇…キセルの火皿と吸い口をつなぐ竹)」「箍屋[たがや]」「鋳掛屋」「古着屋」「古鉄買い」「紙屑買い」などがそれにあたります。

▶江戸におけるゴミ処理

リサイクルの組織が整えられていた江戸時代は、社会全体が発生するゴミの量を抑える仕組みになっていました。
ではどのような物がゴミとして出されたのか。まず家庭から出る生ゴミ、次に住民による投棄物(盆の聖霊棚の道具や供物など)、さらに火災後の土砂や灰といった物でした。
江戸の町のゴミ捨場は堀や川で隅田川・神田川・日本橋川に続く堀が数多くありました。また会所地という空地があり、ここにもゴミが捨てられてました。しかし、これらは本来ゴミを捨てる場所ではなく江戸のゴミ問題は不法投棄から生じる社会問題のひとつでした。
ゴミ処理が行政の仕事となったのは1649年6月で幕府が法令を定めたが、不法投棄は減りませんでした。
そこで1655年11月にゴミ捨場を永代浦(現在の江東区富岡八幡宮の辺り)に定めた。これによりゴミ処理は収集運搬・処分の分業になりました。

▶ゴミ処理業者

ゴミを船で運ぶ者については特に制限がなく、町民たちは各自で所有する手船や傭い船を用意しなければなりませんでした。
しかし1662年10月幕府は公儀指定の請負人を定め、それ以外の者は営業を禁じられました。
ゴミ取船は不定期でゴミが溜まれば早急に対応しなければなりませんでした。しかしこの制度は町方に対してなされたもので、武家方は適用外でした。武家屋敷では出入りの農民に屋敷内の掃除とゴミ処理を請け負わせていました。ゴミ処理の請負人の費用は、町の共益費である「町入用」に計上して表通りに面した家々が負担しました。ゴミ取賃については間口1間(1.8m)につき銀1分と定められてました。当時のゴミ取の請負業は収益の多い魅力的な仕事で1733年には76人に達していました。


「冬の宿嘉例のすすはき」

▶ゴミ処理と埋立地

1655年に定められた法令により江戸の町のゴミ捨場は永代浦と定められていたが、これは必ずしも守られてはいませんでした。
1667年5月、石川又四郎屋敷際へゴミを捨てることを禁ずる法令が出されました。
石川又四郎屋敷際は隅田川河口の石川島のことで、永代島と同じ洲だが江戸の町により近かったため、ここにゴミを捨てる者が多かったようです。しかし、この場所は安房・上房からの船が江戸に入る入口でこの場所をゴミ捨場とは認められませんでした。
1681年6月、ゴミ捨場を永代島新田と砂村新田の2ヶ所に定められました。この地域は新田開発が盛んで、幕府がゴミ捨場に指定したのも造成地埋立ての促進を図ったものと考えられました。
永代島やその付近の埋立ては75年間にわたって行われ、永代浦には深川木場町や六万坪町など新しい土地が生れました。
1730年7月、ゴミ捨場を永代築地から深川越中島付近に変更。ゴミによる埋立地の造成はその後も新しい指定地で続けられ近代に引き継がれてきました。

▶し尿の農地還元

江戸の町では、し尿(下肥)は近郊農村に肥料として売買されていました。つまりし尿のリサイクルです。
最初は江戸の町でもし尿は川端につくってある雪隠(せっちん)から川や堀に流していましたが、1648年に雪隠を小屋とともに取り壊すよう命じた法令が出されたため、公共のトイレが無く不便でした。
しかし近郊農村の下肥の需要が高まると、積極的に収集する方法が考えられるようになり盛り場には有料の貸雪隠なども設けられました。また町の各所には樽や桶を置いただけの簡易トイレが設置されました。これは江戸周辺の有力農民が下肥収集のために設置したもので、使用は無料でしたが汲取りをできるのは設置者に限られてました。

▶江戸と近郊農村

江戸の町でし尿を大量に出すのは、武家方では大名や高級旗本、町方では大商店や裏店の共同トイレでした。これらのし尿は特定の農家が契約している地域や家に行って汲取るというシステムで、下掃除といい汲取って運搬する人を下掃除人と呼んでました。武家屋敷の下掃除を行ったのは特別の関係をもって大名に出入りを許された一部の農家でした。彼らは屋敷で求める農産物を調達したり、もちろん各種の掃除御用を務めた。また町方では農民が個別に契約し、一屋敷単位で汲取っていました。江戸の町人の多くは長屋住まいでトイレは共同でこれを管理していたのが家主(大家)でした。彼らは便所の汲取り権を持っていて、し尿を処分した代金はそのまま家主の収入となりました。
し尿を江戸から周辺の農村へ輸送するには大きく分けて二つの方法がありました。西郊と呼ばれた西側の農村は馬・荷車による陸運が主でありました。また反対側の東郊と呼ばれた農村では舟運が一般的でした。舟運は陸運に比べ人手をかけないで一度に大量の下肥を運ぶ事ができました。

「世渡の風俗図会」 「府治類纂」

▶下肥の値下げ運動

江戸の下肥の需給関係はほぼ一貫して需要過多で、し尿の処分に困ることはありませんでした。それどころか近郊農業の発達にともなってますます貴重になり代金も値上がりするようになり、40年間で約3倍にもなりました。
江戸近郊の農村にとっては下肥の価格高騰は大問題で、1789年11月武蔵国東葛西領の村々が勘定奉行所に下肥元値段(下掃除代金)の引下げを願い出ました。これが最初に起こった下肥値下げ運動です。この運動には武蔵・下総両国より37か領1,016か村という多数の村々が参加しました。これにより価格は 14%引下げられしばらくは安定しましたが、価格は再び高騰し、値下げの嘆願がしばしばおこなわれました。
請願運動は幕末期まで続いたが、それによって江戸の町にはし尿が放置されることなく町の環境衛生は守られていました。


清掃事業の歴史|各時代

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